成蹊学園に残る、戦争の記憶

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私たちが通う成蹊学園も、戦争によりさまざまな変化を強いられた。当時、成蹊学園では何が起きていたのだろうか。来年戦後80年を迎える今、学園に残る戦争の記憶を見つめるべく、学園史料館の平林くみさんと保延有美さんにお話を伺った。 

当時、学園近くの中島飛行機武蔵製作所を守るため、現在のテニスコート付近に高射砲6基が設置されていた。1945年には、負傷者は出ずに済んだものの、同製作所を狙った爆弾が学園構内に3発着弾した。また、そのような空襲から身を守るため、前庭の芝生の下や本館の東側には防空壕が備えられていたという。このように、戦時下の学園構内の様子は、現在と全く異なるものだった。 

現在、学生の憩いの場となっているトラスコンガーデンは「三菱電機成蹊工場」として使われていた。「学徒動員があっても、学校に工場を設置することで、学習時間を確保したい」という当時の岩崎小弥太理事長の意向だった。設置当初は学生の自主性を養うため、生徒たちに同工場の運営が任されていた。工場で働く学生の授業時間は10時間の就業時間の中で、わずか1時間。このような状況下でも、工場での労働を通して仲間との絆が深まったと、当時を前向きに振り返る人もいたという。

その他の学生たちの授業時間数も、勤労動員のため大きく削減されていた。授業には軍事的な基礎訓練を行う教練が組み込まれ、古典や歴史の授業を多く行うなど、重点が置かれる学習も平時と異なるものだった。箱根(現在の箱根寮)に疎開した児童は、食糧と燃料の不足に悩まされた。一人あたり1日3合の米とわずかな副食が与えられたが、育ち盛りの子どもには到底足りなかった。また、燃料不足で厳しい寒さに耐えることができず、冬場には小涌谷へと疎開先を移さざるを得なかったという。 

成蹊学園が吉祥寺に移転して100年。その長きにわたる歩みの中には、戦時下という困難な状況に置かれながらも、仲間と協力して学び続けた人たちの努力の歴史があった。学園史料館の展示や年報では戦争体験者の声に触れることができる。成蹊学園の歴史をきっかけに、平和について考えてみてほしい。

(髙橋栞奈)

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